沖縄には戦前、軽便鉄道が走っていました。
駅舎が元々あった場所にできた「軽便与那原駅舎」という資料館を訪れ、ケービンの歴史にますます興味を持ったので、図書館で見かけたこの本を手にとってみました。
「ケービンの跡を歩く」金城 功 著 (1997年10月30日初版発行)
電子書籍版はおきなわ文庫より2018年5月11日に出ており、初版から21年後の復刻となります。
沖縄の軽便鉄道ガイドブックの草分け的存在
以下は1997年初版発行当時の作品紹介です。
「ケービン」とは今次大戦まで沖縄を走っていた軽便鉄道のことで、その汽笛「アフィーアフィー」の方音と共に県民に広く親しまれてた。著者はその線路跡(与那原線、嘉手納線、糸満線)を丹念に踏査。当時の基幹産業・糖業とのかかわりも浮き彫りにする。
著者は沖縄大学教授(近代史)
この著書は沖縄の軽便鉄道ガイドブックの草分け的存在だと思います。
著者が沖縄県立図書館の館長を定年退職後に3年かけて旧沖縄鉄道跡を歩いた記録が収められています。
1994年から1996年の間、8回に渡って「地域と文化(ひるぎ社)」に掲載された「旧沖縄鉄道跡を歩く」という連載に加筆したものがこの著書になるそうです。
3章構成となっており、第1章は与那原線跡、第2章は嘉手納線跡、第3章は糸満線跡の紹介になっています。これは鉄道の建設順でもあります。
著者は地図に沿って丹念にケービン跡を歩いています。写真や資料の掲載も豊富で、読んでいると一緒に歩きながら線路跡や駅舎跡をひとつずつ確認しているような気持ちになります。時間があればこの本を片手に実際に歩いてみたいものです。
1994年〜1996年というと今から20年以上前になりますので、プリマートなど今は無いお店の名前も登場し懐かしい気持ちにさせられました。地図を見ながら読み進めた方が理解が深まると思いますが、長く沖縄に住んでいて土地勘のある人はだいたいあの辺だなと思い巡らせながら読むことができると思います。
インタビューから垣間見えるケービンが走っていた当時の様子
時折、調査場所で出会った人達のインタビューが載せられており、ケービンが走っていた当時の様子を垣間見ることができました。
- 通勤のために多くの人が利用している嘉手納線の大見謝駅から乗ると客車の中に入れないことがあった。客車の外にぶら下がるようにして乗っていると汽車から出る煤煙の火の粉が飛んできたので、よく火傷を負っていた。
- 大山駅から北谷駅に行く途中に伊佐浜の横を通るが、護岸が低く、海が時化る時には打ち寄せる波でずぶ濡れになることがあった。
- 平安山駅ではサトウキビを満載した汽車が坂を上がれずに後退し、かまの火力を強くして上ることもあった。
- 那覇での波之上祭の日は、汽車に多くの人がぶら下がるようにして乗って那覇に出た。若者たちはまともに料金を払わなかった。
- 汽車は頻繁に通るわけでもないし、汽車道を畑に行く道としてよく利用した。
- 糸満線の銭又から平川にかけては急な昇り坂だったため、機関士はまだ燃え切っていない石炭を外に放り出し新しい石炭をかまに入れて火力を強くした。放り出された石炭がサトウキビ畑にころがりボヤが起きた。農家は「マタンデムヌ(また燃えた)」と言いながらバケツで水をかけ消火作業を行った。
太平洋戦争の末期には兵隊や軍需物資の輸送に軽便鉄道が利用されたといいます。糸満線の走っていた大里村で200人以上の犠牲者の出る大きな列車爆発事故が起きたことがありました。その時近くにいた方のインタビューもありました。
ケービンに関する「へぇ〜!」なこと
ケービンは1914年に与那原線が運行開始、1922年に嘉手納線が運行開始、1923年に糸満線が運行開始しました。鉄道敷設の資金調達にも紆余曲折を経たようで、与那原線ができたあと嘉手納線の敷設までに8年もブランクがあります。嘉手納線と糸満線どちらを先に敷設するかで県議会でもめた末に、北部への物資運輸の便を考え嘉手納線が1年早く敷設されたのだそうです。
玉城村出身の大城幸之一議員の意向が糸満線敷設計画に大きく反映され、駅がいくつか増えた為に内陸部に深く食い込む大きなカーブができたそうで、それが「幸之一カーブ」と呼ばれたというこぼれ話もありました。力を持つ先生として地元の人に敬愛されていたのでしょうか。
宜野湾に「軽便橋」というケービンの名残のある橋があることなど、沖縄に住んでいながら知らなかった情報もありました。
また自分が住んでいる場所や以前住んでいた場所付近の「あんなところに!」というポイントに駅舎や線路があったのを知り驚きました。この本の醍醐味かもしれません。旅行などで一度沖縄を訪れたことがある方にとっても新鮮な見方ができるかもしれません。
戦前と戦後では、沖縄の景色はこんなに違うのだと思い知らされました。米軍基地ができたことや度重なる道路改変や区画整理などで、ケービン跡の全貌を確認することはもうできないのだなぁと寂しい気持ちにもなります。
戦後は行政による軽便跡の正確な把握はされておらず情報が乏しい中で、目に見える跡地をひとつひとつ確認しながら、目に見えない跡地は「ここだろう」と想定しながら踏査を進めていった著者の苦労と情熱に敬服です。