【ブックレビュー】「海をあげる」上間陽子著(筑摩書房)

この本を読んだ日、辺野古新基地の日米共同使用が2015年に極秘合意されていたという報道がありました。キャンプ・シュワブに陸自の「水陸機動団」を常駐させるというものです。100年後の沖縄は中国や北朝鮮を牽制するための日米共同の中核基地になっているのでしょうか。目に見えない大きな力によって、地元住民の生活に関わる大事なものごとが決まっていく瞬間を何度も目撃しています。

2歳の子でも「オスプレイ」という単語を覚えるのが基地と共存する沖縄。上空の爆音が恐いと言って抱っこを求めるから「大丈夫だよ、恐くないよ、落ちてこないからね」と言い聞かせる時、本当に落ちてこないのだろうかとどこかで疑問を感じています。「落ちることもあるから気を付けないといけないよ」といつかは言わないといけないかもしれません。

新基地の建設のために辺野古の海に土砂が投入されたのが2018年12月14日。その日のことを書いたのが11篇目の「アリエルの王国」です。著者のまだ幼いお子さんが「死んだお魚やヤドカリやカメはどこに行く?」と問い「アリエルみたいにどこか遠くに逃げていきました」と答えてあげたエピソードが胸を打ちます。

しかし本書は政治色が強いものではありません。静かな筆致で、政治の決定がもたらした哀しみや怒りについて、どちらかと言えば淡々と書いています。海に土が入ることで海の生き物たちは死ぬことが悲しい。あらゆる悲しさに対する胸の痛みに全身で向き合っている姿勢に「あぁ感情に従って声をあげて良いんだ」と思わされます。

日常生活の中で心の声を無視して物事をこなさないといけない場面は往々にしてあります。理不尽な場面でも心を無にするとやり過ごすことが出来る。大人になって、社会人になって、「他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられる」と良い意味でも悪い意味でも心で唱えている人は多いかもしれません。私達は我慢比べをしながら生きているのではないかと思うこともあります。でも心の声に従った時、「ジュゴンのいる海が汚されること」や「上空にまがまがしい機体が飛んでいてそれが落ちる可能性もあること」に対して「NO」と声をあげることは不自然なことではなく、むしろ必要なことかもしれません。胸の痛みに鈍感だったり、押し殺したりする人が多い社会の方が問題かもしれません。

裸の心で不自然さと向き合う時に、政治がどうとか左翼がどうだとかの話は持ち込みたくありません。辺野古の海が汚されていくことは何重もの悲しさから成ります。戦後捕虜にされた人達の遺骨がキャンプ・シュワブの下には埋まっており、コンクリートで埋まってしまうと掘り起こしが出来なくなること。捕虜になった人達は何ヵ月も壮絶な地上戦の中を逃げ回ったであろうこと。巻き込まれた住民の中には日本軍に泣きやませろと言われ自分の赤ちゃんを胸に押さえつけ死なせてしまった人もいること。ただの「悲しさ」ではありません。

また著者のフィールドワークである沖縄の未成年の女の子達(性暴力の被害者など)が置かれている「貧困」の状況は、戦後の基地政策と無関係なものではなく、戦後75年経ち「戦争」が風化していく中でどのように次世代に伝えるかなんて生易しいことを言っている場合ではありません。あの頃から、その前から、連綿と続いている沖縄の貧困。しかも穏やかな南国イメージの下に押しやられているもの。著者が必死に書いてくれているあまりにも厳しい沖縄の貧困層に生きる女の子達の実態は、到底自己責任論で突破できるものではなく、同時代を生きる人達でいったん立ちすくむことの必要性を思います。

聞く耳を持たなければ聞こえない声。何年もフィールドワークで女の子達の声に耳を傾け続けている著書ですら、聞く耳を持たなかったから聞こえない声があったかもしれないと書いています。近親者からの性暴力という、当事者だから黙り込みたくなるもの。そして年齢が若ければ若いほど表現する術を知らない、あるいは持たないもの。必死の思いで声を拾いあげた人がいたとしても、聞いた人が立ちすくむことしか出来ず、あるのは困難で複雑過ぎる現実だけかもしれません。それでも聞く耳を持つ人が増えれば増えるだけ、この世から消えない悲しみの数は減っていくだろうと思います。

上間さんから読み手に託された「絶望」。「海をあげる」の「海」を「絶望」と置き換えて最後の3行を読んだ時に愕然としました。上間さんが両手いっぱいで抱えている荷物を少しでも持ちたいと思える人がいればいるだけ希望が生まれるように思います。

大学教授の著者が自分の生活のことを織り交ぜながら語る12篇のエッセイは、誰にとっても読みやすく、かつ考えさせられるものです。

「海をあげる」上間陽子著(筑摩書房)

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