首里城入門ーその建築と歴史ー 首里城研究グループ

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この本を手に取った理由

2019年10月31日に首里城火災が発生しました。

首里城火災に思うこと 
2019年10月31日に発生した首里城火災を受けて思うこと。美しかった首里城を偲ぶ。再建に向けて個人ができること。

沖縄に生まれ育ち、現在も沖縄在住の私にとっては、これまで当たり前のように存在していた(と思っていた)ものが無くなったことに大きな喪失感を感じました。

しかし、首里城が30年かけて復元された過程は、決して「当たり前」のものでは無かったのだということを連日の報道などで思い知らされました。

これまで首里城復元にご尽力されてきた方々のインタビューや、識者が論じる首里城復元の意義や今後の再建への課題などを見聞きしていると、これまで首里城復元と共に沖縄県民のアイデンティティー醸成に貢献されてきた方々へ感謝の気持ちを禁じ得ません。

また、首里城を勝手にアイデンティティーの拠り所にしておきながら、知識が乏しく首里城のことを雄弁に語れないという事実も突きつけられ恥ずかしくなりました。

「いつでも行けるところ」だが観光施設なので自分の普段の生活からどこかかけ離れたところにあり、積極的に知ろうとはしてこなかった面もあります。

そのような中で、まずは改めて首里城のことを学びたいという気持ちになり「首里城入門」というタイトルのこの本を手に取りました。

首里城入門―その建築と歴史― (おきなわ文庫)

上記画像は1997年7月初版の本です。

概要

「第1章 沖縄の歴史と首里城」

Ⅰ 沖縄の歴史概説

沖縄(琉球)の歴史は5つの時代に区分されますが、ここでは「先史時代」「古琉球」「近世琉球」「近代沖縄」「戦後沖縄」の流れを辿りながら首里城の歴史を説明しています。

1429年「三山時代」に終止符を打ち琉球王国を樹立したのが尚巴氏(一尚氏王朝時代の始まり)であり、その琉球王国の拠点が首里城でした。

東アジア、東南アジアにおよぶ壮大な外交・貿易(中継貿易)を展開した琉球は、海外文化を取り入れ独自の文化を発展させていきます。

ここでは、首里城とは古琉球時代に各地にあったグスクのひとつであり、興亡のドラマを繰り返しながら淘汰されていった按司やグスクの頂点に建つものであることに触れ、「首里城の背景には滅びたグスクがある、この視点が重要である」と締めくくっています。

Ⅱ 首里城の歴史

首里城の焼失と再建、修復の歴史が説明されています。

創建以来、全面的な焼失は4回あったとのことですので、2019年10月31日の火災は5回目ということになります。

戦後復元された正殿は、直近の第4期(1712年〜1945年)の正殿がモデルとなっているそうです。

焼失による再建、定期的な改修のため、首里城の建材である材木は慢性的な不足状態となっていたようで、「杣山(そまやま)政策」という自給自足体制の確立による山林資源の保全・振興政策により建材を確保していたようです。山奉行とよばれる行政機関が管理・監督しており、オキナワウラジロガシ(方言カシギー)やイヌマキ(方言チャーギ)が良質の用材として奨励されていたそうです。

Ⅲ 王宮としての首里城

ここでは、琉球王国樹立から琉球処分後までの首里城の歴史や、王宮としてどのような役割を担っていたか、宗教的にどのような存在だったのかなどが説明されています。

「第2章 首里城概説(その1)」

Ⅰ 立地と基本プラン

ここでは、首里城の立地条件の良さなどの説明がされています。

小高い場所にあり水源に富む場所に建てられた首里城は、深い緑に囲まれており荘厳な雰囲気を醸し出していたとのことです。

又、琉球王朝屈指の政治家である蔡温が中国から学んできた「風水思想」を効果的に取り入れられているとのことです。この風水思想のことは、調べれば調べるほど面白そうです。

Ⅱ 正殿(百浦添)

首里城を象徴する最も主要な建物である正殿について、図面付きで詳しく説明されています。正殿は、百浦添(ももうらそえ)、国殿、唐玻豊(からはふう)などと呼ばれており、日本建築の禅宗様が基本となっていますが、随所に中国風意匠を取り入れており、風土や人々の嗜好に合った工夫を凝らした琉球建築を代表する建物だとのことです。

屋根瓦に関する説明もあり、正殿の板葺きが瓦葺きに改められたのは1671年だったようです。首里城だけでなく沖縄の民家と言えば「赤瓦」というイメージが強くありますが、実は灰色の瓦から赤瓦に移行し始めたのは18世紀初め頃だったとのことで、灰色の瓦よりも赤瓦の方が経済的で焼成次技術が容易だったので瓦の需要増大に伴い出回るようになったという説があるようです。

建物の装飾に多く使われている「龍」についての説明もされています。石彫刻、木彫刻、焼物、絵画、刺しゅうといった様々な素材や方法で、これほど多くの龍を表現し装飾として用いているのは正殿のみであるようで、正殿が一層宮殿建築としての風格を帯びる要素となっているとのことです。

Ⅲ その他の主要施設

正殿の他、御庭、北殿、南殿、番所など首里城を構成する主要施設の説明がされています。

「第3章 首里城概説(その2)」

Ⅳ 主な城門

現存はしていませんが、第一の坊門が中山門(ちゅうざんもん)だったようで現在の首里高校の裏門付近にあったそうです。そこから約500mほど進んだ場所に第二の坊門が守礼門(しゅれいもん)があり、この2つの門の間を綾門大道(あやじょううふみち)と呼びお城への大事なアプローチ空間とされていたようです。

守礼門の次に見えるのが歓会門(かんかいもん)で、首里城の正門とされていたようです。俗に「あまへ御門(うじょう)」と呼ばれていたそうで、「あまへ」とは「よろこび」の意味だそうですが、来客をもてなす心が見えるようです。

歓会門を右手に見つつ道を下っていくと久慶門(きゅうけいもん)があり、これは通用門として使われていたそうです。

歓会門を抜けると、首里城第二の門として瑞泉門(ずいせんもん)が見え、それを過ぎると首里城第三の門である漏刻門(ろうこくもん)が見えます。いずれの門も、興味深いエピソードと共に紹介されています。

首里城内郭の第二の門とされる広福門(こうふくもん)を過ぎると、いよいよ御庭にたどりつく最後の門である奉神門(ほうしんもん)があります。この奉神門をくぐると正殿が見えます。

他にも淑順門(しゅくじゅんもん)継世門(けいせいもん)美福門(びふくもん)などの門があり、特に淑順門は女官、門番たちのロマンスの場であったことなど、それぞれ面白く紹介されています。

Ⅴ 城壁

ここでは、首里城を取り囲む城壁の規模、石積みの特徴、城門と石積みについて紹介されています。

沖縄のグスクの中で最大規模を誇る首里城の石積みは、沖縄の石積み技術の集大成と言えるそうです。

Ⅵ 祭祀施設・聖域空間

首里城内の最高の場所(標高136m)に、「京の内(けおのうち)」と呼ばれる霊力のある聖域があったとされているそうです。

又、城内にあったとされる10の御嶽(祭祀が行われる場所)について紹介されています。

「第4章 首里城と催事」

Ⅰ 冊封と首里城

琉球王国は、琉球処分までの約500年間中国との間に冊封・進貢関係を維持していたそうで、その歴史が冊封使一覧と共に紹介されています。

冊封使は滞在中に七宴(しちえん)と呼ばれる接待を受けたようで、どの宴がどの施設で行われたかなどが紹介されています。また、その七宴の中で組踊など琉球芸能が発達してきたことについて触れています。

冊封使には学者・文化人が多かったために、滞在中に詩文を読み、書を書いたとのことですが、その詩文・書が城内の各所に飾られていたそうです。特に、瑞泉門付近の階段の歴代の冊封使の書を刻んだ碑文が数多く建てられていたとのことです。数多くあった碑文・扁額は残念ながら一部しか残っていないようですが、全て残っていたならと悔やまれます。琉球の交流史を読み解く材料になった上に、文化財として貴重なものになっていたことでしょう。

Ⅱ 行祭事と首里城

首里城では王朝の安泰を願うため諸行事が頻繁に行われていたようですが、どのような行祭事があったかについて紹介されています。

「第5章 首里城復元と首里城公園」

首里城復元の意義と事業経過

戦前は幾多の国宝・文化財が正殿に存在しており、沖縄県はもとより我が国の貴重な文化遺産であった首里城ですが、戦時中に日本軍が置かれたことから激しい戦場となりそれらの文化遺産が焼失してしまいました。また戦後は首里城跡地に琉球大学が置かれ、さらに遺構が傷ついてしまったと言われています。

復帰後は「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」という世論の元、歓会門などいくつかの施設の復元・修理が行われてきたそうです。

昭和42年から57年にかけて実施された琉球大学移転計画に伴い、正殿など首里城内郭の施設復元の計画が始まっていったそうです。正殿建築工事は平成元年に始まっています。

ここでは、首里城復元の経緯が年表と共に紹介されています。正殿をはじめ首里城を構成する主要施設が全焼した今となっては、戦後の復元がどのように行われていったのか詳細に資料が残っていることがをありがたく感じると同時に、様々な困難を乗り越えて復元に至ったのにと焼失の無念さを改めて感じずにはいられません。

首里城正殿実施設計

正殿復元にあたっては残された資料が少ないために時代考証に苦労したと記述されていますが、特に彩色に関しては困難を極め、類似事例から法則性を突き詰めるため、親交の深かった中国、韓国、京都、鹿児島などが調査対象となったようです。

又、正殿の構造上の安全性を確認するための実験も行われたそうで、科学的にも技術の高さが証明されたそうです。

「第6章 首里城付近の文化財・施設」

園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)や第二尚氏以降の墓陵である玉陵(たまうどぅん)など、首里城付近の文化財・施設について紹介しています。

感想

22年前に初版が発行された本ですが、首里城に関する全般事項をくまなくおさえてあり首里城について体系的に知るにふさわしい本だと言えます。

図面や年表などの視覚的資料も交えて説明があるので、わかりやすいです。

首里城研究の第一人者で首里城関連で頻回にメディアに登場している高良倉吉琉球大学名誉教授が、執筆に関わっていらっしゃいます。

首里城は遺構が世界遺産なのであって、その上に建てられたものはレプリカだから価値がないという意見も聞きますが、県民の切望により復元が実現し、いざ復元するにあたっては乏しい資料から調査・研究が重ねられてきたのです。

復元の過程で残された資料は、学術的に価値のあるものでしょう。焼失してしまった首里城が単なるレプリカではなかったということがこの本を読んでわかります。

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