タブー視されてきたこと
物語の始まりは、印象派の若い画家・阿政(あせい)が、ある謎の絵の修復を依頼されたこと。阿政はアメリカ留学中に意気投合した新聞記者の方燕(ほうえん)と共に、導かれるように陳澄波の絵の秘密を追いかけることになるが、それが1984年という戒厳令解除の直前だという点は興味深い。(戒厳令解除は、1987年7月15日に中華民国総統の蒋経国によってなされており、1949年以降38年続いたという。)
戒厳時代においては、息を潜めるように当局監視下の中で生きていくしかなかった人々がいたこと、身を守るために叛逆者やその家族と距離を置くしか出来なかったこと、かつて抱いていた理想や夢をいかなる形でも表現することができなかったこと、かつて慕っていた人の話がタブー視されたこと、その実相が垣間見えるにつれ、息が詰まる思いがした。
訳者あとがきによると、陳澄波の絵を命懸けで守り続けてきた妻や家族のことを描いた舞台劇が、台湾で2023年に上演されているという。家の中で誰にも見られぬように保管され、人目を忍んで時々日光浴をさせてきたその絵が、創作後、何十年の時を経て日の目を浴びたことは希望の象徴である。
中国人か、日本人か、台湾人か
陳澄波は、日本留学時代、上海での教師時代、台湾に帰ってから光復後まで、自分自身のナショナリティ―の選択を常に求められてきた。当局によって、文化人の集まる晩餐会の場で、同郷の嘉義の人々の前で。中国人か、日本人か、台湾人かを権力によりその選択を迫られることは暴力性をはらんでいるし、身近な人と語り合うだけでも対立を余儀なくされる時代だった。
陳澄波はヨーロッパに憧れ、ゴッホやゴーギャンの芸術から多くを学び、日本に留学して技術を磨きながらプロレタリアという思想に出会い、あらゆる文化を吸収しながら台湾の市井の人々を描くことを追及した一人の自由な心を持った芸術家である。中国、日本、アメリカ・・・権力を持つ国家間で揺れ動いた時代に台湾の人々が背負わされた困難は計り知れず、その時代に陳澄波が画壇を通して台湾の文化水準の向上、地位向上を図ろうとした不断の努力や、大きな理想、政党に入って議員になり、当局に立ち向かってまで人々のために貢献したかったことを思うと、胸を打たれるばかりである。
対立を乗り越えること
方燕は「外省人」で阿政は「本省人」だという出自が異なること故の避けがたい対立も描写されていたが、パートナーシップを築く上でそれにどう向き合うか、ひいては人類が思想の違いをどう乗り越えていくかということを、陳澄波の生き様や絵の謎に迫っていく構成の中で、相乗効果をもって読者に問いかけていた。
作中では、思想が違う相手とも腹を割って話すこと、誰かが誰かを下に見るべきではないこと、対立しても最後は笑い合うことが描かれている場面もあった。しかし、台湾では光復後、2.28事件が近付くにつれてそれが出来なくなっていく過程がとても恐ろしく、1947年頃の台湾国内で起きていた理不尽な弾圧(作中の、軍人による暴力描写、写真、弾圧を描写した版画作品等でリアリティーが感じ取れる)は、見過ごされるべきことではない。陳澄波の家族から話を聞いて方燕が流した涙は、大きな声で自分の理想を高らかに語れることができることの尊さを浮き彫りにしていた。
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